3,飛躍を期して
飛躍期して
大本は明治25年に艮の金神(国常立尊)が出口直開祖に神がかりされたことにはじまり、三千世界を立替え立直してみろくの世をつくることを使命としている。
「三ぜん世界一同にひらく梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ」「この世は全然(さっぱり)、新(さら)つの世に替えて了うぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除をいたして、天下泰平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ」と初発の神諭に示されているが、神のご意思と警告を世人に伝えるため、開祖は終生一万巻にもおよぶ筆先を書きつづけられたのであった。
さて、明けて明治42年に入ると、聖師は早くも新たな文書宣教に乗り出した。「直霊軍」の創刊である。発行日は2月15日。毎月1回15日発行でB5判8頁であった。
聖師は自ら主幹となって、教説をはじめ開祖のお筆先を「天の真名井」と題して発表した。
明治33年8月23日のお筆先に「今の人民耳に這入らんなれど神の役が済まんから、此の出口に今書かした神示(こと)を先繰り新聞に出して下さらんと、物事が遅くなりて居るぞよ」と示されているように、開祖は一日も早く筆先が世に出されることを望まれていたのである。
「直霊軍」の編集人は湯浅斎次郎、発行所は綾錦社(綾部市本宮町2)で印刷所は小宮活版所(天田郡福知山町字下柳27)であった。
「直霊軍」は第3号から印刷所を綾部町南西町の塩見活版印刷所に移し、8月23日発行の6号から発行所も「直霊社」となり、聖師自らが編集兼発行人となった。
この8月には発行部数も1,500部に達し、京都、大阪、和歌山をはじめ名古屋、東京、千葉にも布教が広がった。
宗教界では、西本願寺の僧侶・足利浄円師が、渡米中にキリスト協会が出版部門をもって布教活動を展開しているのを知り、帰国後「同朋舍」(京都市、現同朋舍出版)を設立したが、それも大正7年のことであった。
宗教界でこのように活版印刷を駆使し、印刷物を媒体として布教活動をするというのは稀有な時代であった。この一事をみても、情報時代を予見した聖師の着眼力と発想力の偉大さをうかがい知ることができる。
直霊軍は発行部数も増大し、出版部を新設するなど組織の整備も進んだ。また一方において神殿を創建することになり、明治42年8月3日斧始式が執り行われた。この年の11月22日には弥仙山にあがっていた元の活神の神霊を迎え、神殿の落成式と還宮式が挙行された。
引き続き、境内地の拡張や神殿の造営が決まり、山陰線の京都~綾部間が開通(明治43年8月)したこともあって信徒の参拝は増大し、急速に活力を呈してきた。しかし、当時の大日本修斎会は会員数一万名と公称しながらも実際はその1割にも満たず、「直霊軍」の大半は宣伝用の無料配付というのが実情であった。さらに、相次ぐ神殿や施設の造営によって、財政は窮迫化していった。
こうした財政難を打開するため「壱千万人講」といった方策も計画されたが、実を結ぶこともなく「直霊軍」はついに明治43年6月、14号で発行が一時中断され、12月には15号をもって廃刊の止むなきにいたった。その最終号には「慎んで会員諸君の報国赤誠に訴ふ」と題して次のような文章が発表されている。
「(前略)脚下の本会事業を顧みれば、僅かに斎殿拝室参集場講習場祖霊殿其他数棟の建設と六百有余坪の敷地を購入したる位が関の山にて、未だ驚天動地の活動を為すに到らず。直霊軍の発行は毎号数千部に達し、会員の数一万出ると雖も、至誠の士十数名の外は一銭の雑誌料をも支出する人士なく、僅々三拾に過ぎざる会員の補助に依りて此難関を切抜けたる次第なれば、乞ふ会計の現況を洞察されんことを。」
聖師の強い念願である印刷物による布教は財政的事情によって一時中断を余儀なくされたが、このような苦境にも屈することなく精力的な活動は次々と展開されていった。
明治44年1月、大本の祖霊社を出雲大社教の分社とするため同教を訪問、合法化への道をつけた。またこの1月には遅れていた養嗣子の手続が完了し、聖師は出口家の家督を継いだ。さらに8月には大幅な役員改選を行い、組織の拡充をはかり、いわゆる土台づくりを図った。内部面では組織の充実、外部面では積極的な布教活動の展開によって、教勢は丹波一地方の庶民的信仰集団から全国的な神道系民衆宗教へと脱皮していった。明治45年には大日本修斎会の会員数は公称二万人を数えるようになったのである。
大正時代に入ると、聖師は会則を改め、新たに「大本教教則」をつくった。この教則ではじめて大本教の教団名が公式に用いられ、教団を「大本教(たいほんきょう)」「大本(おほもと)」と呼ぶようになった。しかし、この改正後も大日本修斎会の名称はそのまま用いられた。