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15,発展する文書宣教

発展する文書宣教

 社は昭和33年春から「霊界物語」(普及版)の刊行に向かって全精力を傾注した。1ヵ月に3冊というペースは当時の生産能力からいってかなりハードではあったが、編集から文選、植字、印刷、製本にいたるまで編集と工場が一体となって懸命に取り組んだ結果、35年3月には予定通り72巻を刊行することができた。工場の担当者は連日深夜まで残業を続けたが、なんら大きな障害にぶつかることもなく、順調に業務を遂行できたのはまさにご神慮による以外はなかった。35年春からは、さらに開教70年事業として「大本神諭」「霊界物語・天祥地瑞」の印刷に入り、社の使命であるご神書の発行は生産体制の整備とともに一段と本格化した。
 「霊界物語」の刊行に懸命に取り組んでいた昭和34年7月には、株式会社「木の花社」の営業部門を全面的に天声社に移管することが決まった。また同35年2月には社員の福利厚生対策として「中小企業退職金救済制度」に加入した。この制度は労働省の指導で昭和34年11月にスタートしたもので、社が毎月一定の積み立てを行って、社員の退職金に充当しようという目的である。
 さらに、生産体制の方でも菊全判活版印刷機や二回転軽印刷機を導入して、印刷能力の増強をはかるとともに工場の改修も行った。
 社は「おほもと」をはじめとする機関紙に加え「霊界物語」(普及版)や三代教主の「寸葉集」、日出麿尊師の「信仰覚書」など出版活動が順調に進展したため、業績も上昇軌道に入った。昭和40年、東京オリンピック後のわが国経済界は深刻な不況に見舞われたが、天声社は売上、利益とも増えて配当も従来の7%(年)から8%(同)に増配した。
 昭和40年4月から「おほもと」誌から分かれて青年部の機関誌「まつごころ」が発行されたが、さらに日出麿尊師の句集「山懐集」(昭和39年2月8日)や「念うところ世界なり」が相次いで刊行された。
 昭和40年、朝日新聞社から発売された出口京太郎著「エスペラント国周遊記」は8版に達するベストセラーになり、各界に大きな反響を呼び起こした。こうしたことが、エスペラント熱を高め、国際部発行の「ノーヴァ・ヴォーヨ」は誌面の刷新と充実が進んでいった。
 昭和41年9月、講談社から「信仰覚書」が「生きがいの探求」として全国一斉に発売された。「生きがいの探求」は全国信徒の献身的な拡販運動とも相俟って、発売以来すぐにベストセラーとなった。販売冊数は3ヵ月で30万部に達する勢いを示したが、この人気は天声社発行の「信仰雑話」「信仰叢話」「信仰覚書」にも波及していった。
 こうした外部出版による宣教活動とともに、すでに昭和35年4月からは、「大本70年史編纂委員会」のもとで本格的な通史として、教団史の刊行準備が進められていた。
 「大本70年史」(上・下巻)は宗教界や学会の協力を得て、42年9月に完成した。この印刷には終始天声社が担当し、その責務を全うすることができた。
 また、この8月7日には「霊界物語」校訂版をあらたに刊行することとなり、1、2巻が発売された。
  この「霊界物語」は大本教典刊行会を中心として会員制による限定販売とした。B6判の上製本で前納一時払いは28,000円(72巻74冊)。1ヵ月2冊の配本を目標として会費は800円(月)とした。
 この「霊界物語」(校訂版)は発売以来、全国から申し込みが殺到した。半年後の43年春には刊行会の会員は4千名に達する勢いであった。
 天声社は増大する印刷量に対応するため、さらに設備増強を進めた。その1つとして京都府から中小企業設備近代化資金を導入(昭和42年)、2回転凸版印刷機を設置した。
 昭和43年にはかねて懸案となっていた「大本神諭」の全巻出版が決定され、11月6日の開祖大祭に第1巻が刊行された。この「大本神諭」は全5巻で、やはり教典刊行会によって順次発売された。
 大本二大根本経典の出版のため、天声社は昼夜を問わず全精力を傾注して作業に取り組んでいった。全国信徒の拝読熱も高まりをみせ、同45年春、「霊界物語」60巻の刊行時には刊行会会員は4千4百名に達した。
 一方、神具部門も受注量が順調に増大し、また信徒の便宜を図るうえで、昭和44年6月28日、大本会館の東正面東側に「売店」を開設した。こうしたことが相俟って業績は拡大し、昭和44年度の第18期決算で初めて売上げ1億円を突破することができた。(1億511万円)
 44年4月からは青年部機関誌「まつごころ」が購読制に切り替えられ、内容の充実化に取り組んだ。「まつごころ」の発行部数は4千5百部に達し、青年信徒の機関誌となる発展期の新段階に入ったのであった。
 一方、この44年から日本光明化宣教を推進するため新書判の「光明化シリーズ」として出版計画が具体化、その第1集として「神の経綸」(定価40円)が発売された。さらに引き続いて「神示の日本魂」「日本文化と教育」などが相次いで刊行された。
 当時、天声社にとって活字の母型整備は重要な課題だったが、出版活動が活発化すると共にその必要性は一段と高まった。このため44年3月には8ポイントの明朝母型3896本をモトヤから購入、さらに4月には8ポイントのゴシック母方800本も追加した。
 またこの5月の株主総会では松家博と津田左千彦の2人が取締役に選任された。天声社育ちの役員はこれが第1号である。
 特にこの頃になると、地元亀岡市からの受注が相次いできた。例えば亀岡市の広報誌「伸びゆく亀岡」をはじめ市内の小・中学校機関紙「桜が丘」「亀中新聞」など、その数はかなりのものになってきた。
 信徒の中にも歌集出版計画などがもち上がり、三浦孝を中心に「十人歌集」なども刊行された。
 全社が一丸となって印刷に取り組んでいた「霊界物語」(校訂版)は45年9月に全巻を刊行した。42年8月からちょうど3年を経過していた。
 愛善苑発足後、中外印刷所時代に抄1―抄4を刊行、また35年3月には再発足成った天声社で普及版を刊行したが、この校訂版はさらに印刷・製本等経典にふさわしい体裁となった。
 この昭和46年は聖師生誕100年にあたる記念すべき年で、その事業の一環として「立替立直し」誌(大日本印刷)の全国頒布活動が展開された。
 「木の花」誌は刊行以来、短歌の啓蒙・指導など教団芸術活動の中心的存在となっていたが、27年からは「おほもと」誌に併合されていた。
 しかし、短歌人口の増加や投稿者の質的向上につれて独立した機関誌として発足しようとの機運が強まり、昭和47年8月号から復刊した。当時は1千5百部からスタートしたが、9月号からは早くも2千部に増え順調な滑り出しをみせた。
 昭和48年秋、中東紛争に端を発したオイルショックはまたたく間にわが国の経済や生活に大きな影響を与えた。品不足はたちまち全国に波及し、トイレットペーパーを求める婦人が店頭に長蛇の列をつくった。物価は異常な値上がりをみせ、いたるところでモノ不足が表面化した。
 印刷業にとって絶対欠かすことができない用紙の在庫不足は深刻だった。
 印刷業界は用紙の確保のため奔走したが、天声社は服部昌商店(京都市)などの協力で「おほもと」をはじめとする機関誌や教典を予定どおり発行することができ、この難関を乗り切ることができた。
 昭和47年10月19日、フランスのセルヌスキー国立美術館を皮切りに始まった「大本芸術展」は各地で予想以上の好評を得、聖師のお作品をはじめとする大本芸術が多くの人々に圧倒的な感動と共鳴を与えた。このため展覧会は次々と各国で開催されることとなり、会場はイギリス、オランダ、ベルギーへと移っていった。
 ベルギーのブリュッセルで昭和49年10月30日、一応ヨーロッパにおける展覧会は惜しまれながら閉幕した。舞台は50年に入りアメリカへと移った。
 アメリカ初の海外展はニューヨーク市の「聖ヨハネ大聖堂」で50年3月14日から開催し、大本信徒や本部職員による献茶、能楽、武道、八雲琴奉納が展覧会を一段と盛り上げた。その年の11月18日にはサンフランシスコ市でもこの芸術展が開催されたが、奉仕者の一員として天声社社員も派遣された。
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