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9,東奔西走

東奔西走

昭和3年月3日、綾部のみろく殿で「みろく大祭」が盛大に挙行されたが、聖師が満56歳7ヵ月を迎えた日でもあった。祭典後、聖師は救世主としての自覚を内外に表明されたが、この日を期して教団も組織の一新を図るため、聖師は大本総裁、天恩郷主事、瑞祥会会長とともに天声社社長にも就任されたのである。天声社の社長補には御田村竜吉、社長補心得には瓜生潤吉がそれぞれ就任した。
 そして8月の聖師誕生祭を機に機構改革を実施、本社(綾部)を第一天声社として社長に岩田久太郎、亀岡支社を第二天声社として社長に御田村竜吉が就任、新体制を確立した。
 天恩郷の建設も急ピッチで進展し、7月には明光殿が、11月には待望の月宮殿が相次いで完成をみた。これを機に聖師作品展が全国的に行われ、大本講話や「人類愛善新聞」の頒布とあわせて教線は燃えひろがっていった。
 天声社の工場で日夜、懸命に作業に取り組む青少年の信仰意欲も盛り上がりをみせた。亀岡の第二天声社では8月29日排煙同盟が組織された。さらに日々の努めとして朝拝の参拝、神苑の清掃、20分間の朝食前の体操などが自主的に行われるようになった。
 綾部の天声社でも有志が中心となって俳句の研究会「紫微の会」が発足、昼休みなどを利用して熱心に勉強が続けられた。
 7月には、東北地方にご巡教中の聖師にさし上げるため「夏の旅」と題する和歌、俳句、冠句、沓句の同人誌をつくった。聖師はこの同人誌を旅先でご覧になるとすぐ絵ハガキで返歌を出され、同人一同は大いに感激したのである。
 一方、設備面では昭和2年6月8日、速水鉄工所(大阪)の速水親子が参綾、印刷機を点検のうえ、一台を分解して修理をしたが、さらにこれだけでは増大する印刷量に対応できないため新たに導入することとなった。
 昭和3年4月、当時社長補心得であった瓜生潤吉は大阪の橋本鉄工所を訪問、調査のうえ購入を決定した。
 この印刷機は菊全判の活版機で、5月2日に到着し、3日には据え付けを完了するというスピードぶりであった。
 一方、亀岡の第二天声社でも着々と体制の整備を図り、3年11月1日には活字鋳造工場が、さらに翌4年4月2日には天声社事務所が相次いで完成した。また5月には旧事務所跡に輪転機工場が増築され、輪転機が据え付けられた。この輪転機(西川鉄工所製)は「人類愛善新聞」印刷用として購入されたもので、5月28日には午後から試し刷りが行われ、引き続いて仕事始めの祭典が執行された。
 聖師はこの時の様子を次のように詠まれている。
    輪転機据付工事の有様をつらつら見たり天声社にて
 それから2ヵ月後の7月、写真製版所が完成し、明光社第一工場と命名された。
 昭和4年ごろになると天声社の社員は綾部の第一天声社が七十名、亀岡の第二天声社が五十名を数えるようになっていたが、それだけに恒例の遠足旅行になると神苑は一挙に火の消えたような寂しさを招くほどだった。
 若い社員達は雄弁会なども発足させて、自己研鑽に努めたが、聖師もこうした活動を大いに奨励して雄弁会に「直言会」と命名した。この例会には尊師もたびたび出席して、冠句の作り方などを指導されることもあった。
 尊師は昭和4年2月10日、井上留五郎、河津雄を随行に台湾へ巡教に発たれ、その台湾に着かれる前日の2月13日「ふと天声社のことが想い浮んで」つぎのような歌詞を創作された。
    下つ岩根の蓮華台
    国常立とことはに
    鎮まり給ふ本宮山
    麓に立ちてすめ神の
    言霊幸はふ天声社
    清きわれらの集ひかな
    岩戸の古蹟元伊勢の
    宮川注ぐ和知の川
    身魂を洗ふ中つ瀬の
    岸辺に近く天地の
    教(のり)の花咲く天声社
    われらが奉仕の意気をみよ
    貴の使命を身にうけて
    あやめも分かぬ闇の夜を
    再びもとの神光(みひかり)に
    復(かえ)さんものとひとすじに
    いそしみはげむ天声社
    守らせ玉へ天つ神
    かたき誓ひに打ちよりて
    けがれに染まぬ若人の
    みよ血と汗と涙もて
    混濁の世を浄めんと
    雄々しく立てる天声社
    守らせ玉へ国つ神
    春のあけぼの紫の
    霞に浮くや弥仙山
    金龍の海しろじろと
    祝詞に明くる神屋敷
    その一隅にそそりたつ
    われらが住ひに栄えあれ
    秋の夕ぐれ四つ尾の
    嶺に織り成す綾錦
    御池に映えてくれなゐの
    燃ゆる心に相寄りて
    親しみえらぎ睦みゆく
    われらの未来に光あれ
当時、第一、第二天声社が取り組んでいた出版事業は「神の国」「真如の光」「明光」誌などの教内機関誌のほか、「人類愛善新聞」「瑞祥新聞」といった対外宣伝の新聞、さらに「霊界物語」また「道の大本」「大本の大要」「大本案内」「宣伝歌集」「東北日記」(8巻)「日月日記」(13巻)「水鏡」「おかげ話」などの新刊や絵葉書といったものであった。絵葉書は二十五万枚印刷し、聖地を紹介した。一方、エスペラント誌の「ベルダモンド」、ローマ字誌の「言葉の光」も内容の充実、刷新がはかられた。
 こうしたなかで、昭和4年8月の本部機構改革で、第一、第二天声社は瑞祥会の所管となった。成長を遂げていく一面においてこうした機構の改革は、事業体としての天声社が組織面でどのようにあるべきかということが、当時からも一つの課題であったことをうかがい知ることができる。
 拡充する工場、飛躍的に増大する機関誌の発行部数・・・そうした状況で思わぬ事件もあった。
 その年の12月25日、第一天声社の工場で火災が起こったのである。この時はボヤ程度でおさまり大事に至らなかったが、この時のことを聖師は次のように詠まれた。
    天声社上下隈なく巡覧ししばし休らひ館に帰りぬ
昭和5年に入って、第一天声社に三色版用の印刷機が導入され、設備面での向上が進んだが、販売面でもいろいろな具体策が講じられるようになった。
 この年の9月から、全国信徒に天声社の使命や存在をより深く理解してもらうため、聖地の参拝者を対象に工場案内がはじまった。
 また、各地でも書店や信徒に対し委託販売もはじめられた。
 10月7日には京都で委託販売を行っている前川新太郎から「北野神社の祭礼の際に表に書籍目録の立看板を揚げたところ意外の売上高あり。中にはわざわざ入り来ていろいろと大本のお話を尋ねる人もあり面白きご神徳をいただきました」との便りが届き、社員は大いに意を強くした。
 ほぼこの頃になると、亀岡の第二天声社も体制が一段と充実してきた。昭和6年4月号の「神の国」では「英文大阪毎日新聞」に掲載された次のような記事を紹介している。
 「京都市に近き亀岡町は修行地となり、文書による宣伝に使するために、印刷所天声社を設け、和文、欧文とともに活字鋳造、印刷機、銅板製作、製版、印刷、製本設備等一切が完備している」。
 教団では今後印刷部門の主力を亀岡に移すことを基本に、昭和6年5月には第二天声社の生産能力を現能力の五倍に増強するため、新工場の建設を決定した。
 「真如の光」の6月号ではそうした当時の状況を次のように掲載している。
 「第二天声社にては一斉に超スピードをかけ『神の国』6月号を最短時日に発刊すべく試験的に本日より着手す。先ず第一の努力は素晴らしく『真如の光』の6月5日号をも発行することとて予期以上の効果を収むべく社内いやが上にも緊張し、目覚ましい活動振りを発揮してる」。
 聖師はこの頃、次のような歌を詠まれている。(昭和5年、「神の国」
    千早振る神の大道を宣布する唯一の力は天声社なる
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